YONISOMANASIKARA

身の回りの現実に起きていることはフィクションの世界より奇奇怪怪である

ある日本人の漫画家のシリアの避難民へのFBの書き込みについて

ある女性の漫画家がシリアの避難民に対して心無い文をフエイスブックに載せたということでインターネット上で問題になった。

 

ほとんどのネットユーザーは「日本人の恥」とかあらゆる罵声をかけてフエイスブックにアカウントを削除する意見等が寄せられた。フエイスブックは削除もせず漫画家も詫びいる様子もなく「本当の避難民には同情するが避難民に寄せられる同情心を利用して避難民になりすます人は許せない」というような反論もしていた。

 

避難民に関してこのようにネガチィブな考えを持ったのは最近世界中で話題になった砂浜に屍体になって横たわっていたシリアの少年の家族が避難民を装ったと思っていたらしい。それは漫画家が広告に添えた文から推測できる。

 

問題の家族を偽装避難民と主張するブログを日本文に翻訳したブログがあるが彼女の主張はそれらを元にしたものと思う。このブログサイトは我田引水的な主張をする記事を載せることで悪名が高いがガーヂィアンなどの信頼のおける新聞を読めば少年の家族はシリアのコバニからトルコに住んでいた避難民であると述べている。信頼のおけるガーヂィアンの記事とネットのブログとどちらを信じるかは個人の感覚の問題だが私はガーヂィアンを信じるが。

 

フエイスブックはツイッターと違いフエイスブックは個人の環境を想定してコミュニケーションをしツイッターは公共のドメインに向けて発信するのでFBは公共性が少ないのでヘイトスピーチとかの発言への規定はゆるい、したがって彼女のアカウントを削除する必要はないと思う。気にいらなければ彼女のフエイスブックのアカウントをアクセスしなければいいので、今回の騒ぎもアクセスしたユーザーがツイッターなどの公共性のあるアプリケーションを使って広げた為であろう。

 

著者の意図が面白い半分か本当にほとんどの避難民が偽物かを信じているのかはわからないがネットの反応をみると日本人の典型的な態度が見えてきて面白い。

 

この騒ぎから思ったことは前から考えていた日本人は他民族の人間と比べて他人を思いやる気持ちが少ないのではないかということだ。このことは今年の初めに起きた後藤健二氏と湯川遥希氏がISISの人質になり無残に斬首された時報道機関、ネットをつうじて見られた日本人の反応を見たときもそう思った。

 

あの時自己責任とかイスラム国と人質両人を使ってコラボしたイメージがネットに頻繁に流れた。コラボしたイメージは悲劇の真っ只中にいる人間の心を察するよりも自分のコラボの作品を大衆に認めさせたいと思うエゴを感じた。つまり思いやりがないわけだ。このような反応は正直言って日本だけではないかと思う。確かに外国でもコラボはするがこのような時に行われた日本人の作品程多くはない。

 

又人質になった人達を危険な所へ行って死ぬのは自己責任という意見もたくさんあった。この論理に従えば海山で遭難した人を助ける救助はどのように説明するのか、自己責任で海山へ行った人達を助けるのは税金の無駄使いとでも言うのだろうか。

 

人間が動物と違うのは他人への思いやりの大きさだと思う。思いやりとは他人の心の動きを自分なりに感じること。動物、例えば犬猫なども似たようなものを持っているが人間ほど複雑で豊かなものはではない。

 

この思いやりは宗教でも強調される。キリスト教で愛を持つことは聖書のいたるところに書かれている。愛とは思いやりも含めた大きな何かである。

 

又仏教でも慈悲の心を持てとお釈迦様が仰っている。慈悲心とは思いやりのことではないのか。

 

人間が人間らしく暮らさせるのは思いやりに負う所が多いのではないか。しかし思いやりの欠落は物事の見識の違いからくることが多い。物事の表面的なことだけを見て背景とか原因をあまり考えないと思いやりがないように思えるが。現代の日本人に多いのはこの見識の浅さからくるのではないかと思う。

 

日本の現代の文化は反知性主義というか皮相主義と名ずけるべきか、テレビを見たり新聞を読んでいても知識を刺激するドラマも読物が少ないと思うのは私だけかな。又日本人は標識にこだわる。自分の観察した感性より社会的地位、位階、学歴、出身大学、家系、外見、服装、評判、噂とかの皮相的な要素に頼る傾向がある。

 

本題に戻しこの漫画家がこのような厭世的な広告を作る原因を私なりに探ってみよう。一歩譲って彼女の言うように砂浜に打ち上げられた家族が彼女の言うように無償援助を受けトルコに住んでいたとしよう。

 

では彼女は一体この家族の何を非難しているのか。ー 安定した住所がある人は避難してはいけないとでもいうのだろうか、彼女も含めて私達は彼等のこと、生活、環境、交友関係、悩み等、何も知らない。彼女の想像する家族は根拠のない、自分に心地よい響きのある情報から作り上げた、観念的ものであるということに彼女は気ずいていない。その観念的に作り上げたイメージは国から無償手当を受け安穏に暮らしドイツに移民できる機会ができ、ドイツでは今より良い生活ができるから避難民を装って行こうというようなものだろう。これらの想像は彼女の性格、過去の経験、教育、そして信条などによって組み上げられたもので、単なる見方であって根拠のないものである。

 

しかし彼女がこのような広告を私的SNSのFBに載せることは構わないと思う。そして彼女のジャパンタイムズに答えた口実の”偽装避難民のことが許せなかった”は自分の根拠のない観念にとらわれ不愉快な思いにとらわれているのだなと私なりの結論をくだした。

 

彼女のように観念的な考えにとらわれる事は私も含めて特に日本人に多い気がする。その理由は現在の日本の皮相文化の影響のせいか民族的なものによるかはわからないが自分の観念的な見方を正しいと思う知識層の意見がSNSとか本の形で市中にたくさん溢れている。

 

このような過ちおこしがちな私達にずっと昔にソクラテスは話しかけてる

 

「本当の知識というものは生きる事、自分自身のこと、そして私達を取り巻く世界、について自分は何もわかっていないということを知ることだ」