YONISOMANASIKARA

身の回りの現実に起きていることはフィクションの世界より奇奇怪怪である

南京事件の別な観点からの考察

2007年に温家宝首相来日の際「南京事件の真実を検証する会」から送られた南京事件の質問状について検証してみたいと思う。南京事件は78年前に起こった事件で日本軍が市民、捕虜をあわせて30万人近くを虐殺したと言われ、虐殺の人数に問題があるとか南京事件で虐殺は全くなかった等が論争の因になっています。

 

否定派も肯定派も目撃者の証言や写真、残存のドキュメントをあげてそれぞれの論理の正しさを証明しようとしてますが、所詮78年前の出来事で真実を解き明かすのは不可能です。だからお釈迦様が2500年前に語られた真実の求める方法に従って私の参照できる情報を使って解析を試みてみました。その前にお釈迦様の真実を求める方法をおさらいしてみます

 

これはKalama Suttaというお経にのっています。

 

人の言葉を単に信じない

噂、呟き、伝説だからと信じない

言い伝えだからと信じない

現在迄信じられてきたニュースだからと信じない

宗教の聖書とか神の言葉だからと信じない

論理的だからと信じない

常識とか誰かの推測によるからと信じない

哲学的だからと信じない

自分の予測、意見、見方にあっているからと信じない

専門家とか権威者が言ったからと信じない

自分の尊敬する人とか先生が言ったからといって信じない

 

自分の経験、信条、見識に照らし合わせ、体験し、立証できれば自ずから真実が顕れる

 

それでは温家宝首相に対する質問から入りましょう、私の考えの部分はイタリックの太字にしてあります

 

一、故毛沢東党主席は生涯に一度も、「南京虐殺」ということに言及されませんでした。毛先生が南京戦に触れているのは、南京戦の半年後に延安で講義され、そして「持久戦論」としてまとめられた本の中で「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」という批判のみです。

 

30万市民虐殺などといういわば世紀のホロコーストとも言うべき事件が本当に起こったとすれば、毛先生が一言もこれに触れないというのは、極めて不自然で不可解なことと思います。閣下はこの事実について、どのようにお考えになられますか?

 

毛沢東の率いる紅軍は第二次国共合作を構築し八路軍として日中戦争に関わっていた。毛沢東は日中戦争を国民党の力を弱らせることに使い南京が日本に攻略された時は喜んだと。だから南京事件の詳細を南京事件の起きたあたりでどのくらい知っていたかは疑問だしこの「持久戦論」はゲリラ戦における戦略を述べたもので虐殺に言及がなくても不思議ではない。又毛沢東が生涯に一度も言及していないなんて毛沢東以外にわかるはずもないし、このような言い回しには質問者の心底に何があるかを感じさせる。

 

二、南京戦直前の1937年11月に、国共合作下の国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置しました。国際宣伝処の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』によりますと、南京戦を挟む1937年12月1日から38年10月24日までの間に、国際宣伝処は漢口において300回の記者会見を行い、参加した外国人記者・外国公館職員は平均35名と記録されています。

 

しかし、この300回の記者会見において、ただの1度として「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と述べていないという事実について閣下はどのようにお考えになられますか。もし本当に大虐殺が行なわれたとしたら、極めて不自然で不可解なことではないでしょうか?

 

中央宣伝部国際宣伝は国民軍が外国の記者を使って日中戦争における日本の悪逆非道を海外に宣伝する目的で作られた組織で南京虐殺に触れていないことが却っておかしい。

この質問は極秘文書を主題にした中野修道氏の「南京事件国民党極秘文書から読み解く」を基にして作られた。本の中に中央宣伝部国際宣伝外国記者を使って南京虐殺をニューヨークタイムズに発表したりとか宣伝本の「戦争とは何か」の本を刊行したとか書かれてる。質問者の立場、虐殺否定、からすれば国民党の国際宣伝部の記者会見の内容はまず信用できないはず。それなのにその記者会見に南京虐殺に触れていないから南京虐殺がなかったは質問者側の否定の証拠探しに”藁をも掴む”心境が汲む取れる。

 この質問は肯定派から起こされる質問で、中国の宣伝機関が何故「南京虐殺」という言葉に触れないのか。

だから多分政治的な理由より技術的な理由で南京虐殺が出てこないのだろう。全ての記者会見の内容は記録に含まれていないとか南京虐殺を別な呼称で呼んでいたとか連合国側から何らかの理由で南京虐殺の話をするのを止められていたとか。

 

三 南京安全区に集中した南京市民の面倒を見た国際委員会の活動記録が「Documents of the Nanking Safety Zone」として、国民政府国際問題研究所の監修により、1939年に上海の出版社から刊行されています。それによりますと、南京の人口は日本軍占領直前20万人、その後ずっと20万人、占領1ヵ月後の1月には25万人と記録されています。この記録からすると30万虐殺など、ありえないと思いますが、閣下はいかがお考えでしょうか?

 

南京事件の時の人口について色々な情報があるがその時の状況を考えれば正確な数字を把握するのは不可能だろう。その中でも一番信頼のおける数字は国際委員会の活動記録に見える南京市の人口が事件前に20、事件1ヶ月後に25万人、これは質問状も国際委員会のデータを使っている。これは市内外の市民が全て安全区に避難したと仮定している。安全区は難民地区みたいなところで正確な人数を把握することは比較的容易だろう。南京事件の1ヶ月後は安全区外にいた市民は安全区に避難してくるはずだから25万に増えたのは何も不思議でない。ということは事件前は最低30万人以上市内外に住んでいたと思われる。11月23日に南京市政府が国民政府に将来の食料の必要量を試算を含んだ書簡には50万と記されている。又極東国際裁判の記録に南京事件の数週間前は南京市と南京市周囲近郊の市民は五十万人と記されている。東京裁判の記録は当時の生き残った日中市民、日本の軍兵士、外国の記者、政府、宗教関係で南京事件の前後に南京市にいた、公文書、日記、写真、フイルム等から集めたものでかなり南京事件を扱った書物の中では最も信頼がおけるだろう。だから虐殺の犠牲者が20万から30万人は誇大とはいえない。 

 

四 さらに「Documents of the Nanking Safety Zone」には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されておりますが、殺人はあわせて26件、しかも目撃されたものは1件のみです。その1件は合法殺害と注記されています。こういう記録と30万虐殺という貴国の主張しているところとは、到底両立し得ないと考えますが、閣下はいかが思われますか?

 

この26件は国際委員会に報告されたものだけで報告されないものや、報告不可能なもの、強姦、残虐行証拠隠滅の為殺したり、は含んでいません。

上に述べてきた論拠は温家宝質問状の中の論法では南京虐殺は否定できないことを示した。しかしながら又南京虐殺があったことを示す論旨でもない。

 

一 捕虜、俘虜の虐殺はあったか

南京虐殺に関連した文献で何が最も信頼できて真実を語っているかを考えてみた。犯罪事件の決め手になるのは被告側の証言、自白であって南京事件に当てはめれば日本軍側、の証言、自白が鍵になると思った。しかも戦後長く経ったものでなく、戦時中、終戦直後か長くとも2−3年以内のものが最も信頼性がある。

数々の証言を扱ったビデオや記事の中で小野賢二氏の元第65歩兵連隊の兵士による証言、陣中日記をビデオに撮った2015年の10月に放映された「南京事件 兵士たちの遺言」の中に公開されている南京事件に関わった兵士の陣中日記は信頼性の高い資料だろう。その陣中日記には1万7千人以上の捕虜が揚子江岸で虐殺され屍体は揚子江に流されたと語る。

一方南京虐殺否定派はこのビデオの記録に語られてるいるものは捕虜を解放しようとした時暴動になったので自衛の為発砲しやむなく銃殺したもので虐殺ではないと主張する。論拠は南京攻略に参加した平林貞治少尉の証言、両角業作大佐の手記、栗原伍長の証言、田山芳雄少佐の証言、箭内 亨三郎准尉の証言と全て自衛発砲説を語ってる。しかしこれらの証言、手記は戦後行われたもので、一方65連隊兵士 達の日記は南京攻略時に書かれたものである。戦後日本が安定した後目撃談を語る人達は自分の名誉、家族のこと、自分の社会的地位によって醜い真実を赤裸々に語るのは余程勇気がいることです。その点戦場での日記は明日の命もわからない運命にさらされたものが嘘、偽りを日記に残しておきたいとは思わないのが人情でしょう。65連隊兵士の日記の方が信頼性が高いことは明らかです。

65連隊の陣中日記には1万7千人近くの捕虜が12月16、17、18の後数日に亘って行われたとあり、銃殺だけでなく、銃剣や刀で刺殺と述べられている。また、捕虜の中には老人、子供も含まれていたと。日本兵は捕虜をお客さんと呼び「今晩はお客さんがきてお客さんを処理するんだ」と話していたと。12月17日の夜1万人の捕虜を囲いに集め銃座を囲いの周りに造り機関銃の銃弾が交差して流れ弾に当たらないように松明を囲いの両側に立てその松明の間を撃つようにしたと書かれている。又野戦電話とケーブルが囲いの周りに設置され連隊本部との連絡に使われた。このような詳細の描写から捕虜の虐殺はあらかじめ計画されたもので連隊本部、又はその上の上層部の指示で行っているものと思える。

第65歩兵連隊が属していた103旅団の旅団長の山田梅二少将の陣中日記は65歩兵連隊の陣中日記に書かれていることを裏ずけている。

山田日記 

 12月15日

  捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
  皆殺せとのことなり

旅団長が捕虜の処置について南京城に問い合わせをしている。問い合わせは誰にしているのだろう。指示を仰いでいるのだから旅団長より上の師団長か参謀長か。常識で考えて数師団が集結しているところで師団長独自で決めることはなく参謀部だろう。参謀部が捕虜を皆殺しの返答をしたということは南京攻略に参加した全ての師団の捕虜のことを意味している。これと65連隊の陣中日記を照らし合わせると捕虜は皆殺しが軍の方針だったとしか読みようがない

 12月18日

  捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す

 12月19日

  捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ

捕虜の始末(虐殺)が少なくとも19日迄続いていたことがわかる。そして江岸とは揚子江岸のことで65連隊の陣中日記の揚子江岸での捕虜虐殺を裏ずけている。

南京攻略に参加した16師団長の中島今朝五中将の陣中日記にも捕虜虐殺の理由らしきものが述べられている

中島日記

12月12日

大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので

ここでも軍の方針が捕虜を片っ端から片付けると。否定派は片ずけるとは放免することと解釈すると思うが、この後”五千一万の群衆だと武装を解除することもできず、唯彼等が全く戦意を失って付いて来れば安全だけど一度騒ぎを起こしたら始末に負えない”と殺すことを意味している

12月13日

此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり

7、8千人の捕虜を始末、殺す、するのは大変で壕が必要だがまだ見つからないと、65連隊が処理した揚子江沿いが壕にかわる可能性を含んでいる。

12月15日

一、敗残兵掃蕩

 十三日夜より各方面を掃蕩するの必要を感じ軍より各師団に区域を配当して之を行ふことなれり

敗残兵掃蕩とは捕虜の始末、つまり虐殺だろう、各師団に区域を配当してと言っているが65連隊が属す103旅団も揚子江岸で処置することが決められたのだろう。中島日記からも捕虜の始末は南京攻略に参加した全ての部隊に課せられていたことが伺える。

一、十六日十七日二日間を以て掃蕩することとし両旅団に区域を配当し各隊は各併行路に一部隊を進ましめて隘路の出口に至りて一泊し翌日又同様にして宿営地に帰還せしむることとす

16日と17日にかけて捕虜の始末をした。これは陣中日記にも65連隊が同じ日に一万五千人近く揚子江岸で処理したと。中島少将の16師団はその前の日記からすると1万人近くの捕虜を処理したのだろう。処理に選ばれた場所はわからないが壕を見つけたのだろうか。

これらの戦時中のどの陣中日記をみても捕虜を放免することは考えていない。戦後行われた手記や証言では捕虜を揚子江沖の中洲へ放免してと言ってるのは自分達の戦時中の行為を隠す為だということは陣中日記から明らかだ。

虐殺された捕虜の数は山田少将の12月14日時点での1万4千777名を最低とし、投降者、略奪による捕縛者は増えている、から65連隊が処理しただけでも二万人近くに上るのでは。ここまでのデータでは正確な数は問題でなく南京虐殺は捕虜に関しては行われたことは否定できない。

否定派は南京事変の時沢山の便衣兵が市民に混じっていたから止むを得なかった、便衣兵は軍法裁判で判明されたら死刑を課せられる。しかし軍法裁判を開いた形跡はないし、これらの日記からわかるのは殺戮の前に軍法裁判を開く意志などは全くなかったということがわかる。

又南京事件の時は日本軍も国民政府も宣戦布告を交わしていないので国際法は適用されないと言うものもいるだろう。それならば便衣兵云々の口実も使えないだろう。それは何を意味するか?中国に居住していた日本人が暴動を起こし国民政府の軍隊、市民を殺傷して国民政府を倒そうとした、これは暴虐極まるテロリスト行為か野心丸出しの侵略行為である。しかし上海、南京事件の前の満州事変で日本はこれと同じ侵略行為をやっている。

二 南京市民の虐殺はあったか

では次に一般市民における虐殺、女子への強姦はどれくらい行われたのか。これらの証言、手記はほとんど犠牲者か国際委員会、外国記者、宗教者関係のもので直接目撃したものはあまりにも少ない。

加害者からの証言は見つけにくいがここで中島日記に戻って解読してみると日本兵士の行動パターンが見えてくる。

中島日記

12月13日

天文台附近の戦闘に於て工兵学校教官工兵少佐を捕へ彼が地雷の位置を知り居たることを承知したれば彼を尋問して全般の地雷布設位置を知らんとせしが、歩兵は既に之を斬殺せり、兵隊君にはかなわぬかなわぬ

”天文台付近の戦闘で工兵学校の工兵少佐を捕まえ彼に地雷の位置を知っている筈なので尋問しようと思ったら、歩兵が既に彼を斬殺してた、全く兵隊君には敵わない” 捕虜にして抵抗のできない者を一兵卒が上官の許可なく斬殺しその上官は歩兵をなじるどころか感嘆を匂わした冗談を言っている。この文からわかるのは軍紀風紀がかなり頽廃していることがわかる。この軍紀風紀が緩んでるいることは軍の上層部も嘆いている。それらを裏ずける軍上層部の証言である。

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松井石根司令官

南京事件ではお恥しい限りです。

我軍の南京入城に当り幾多我軍の暴行奪掠事件を惹起し、皇軍の威徳を傷くること尠少ならさるに至れるや。

然れとも戦闘の混雑中惹起せる是等の不祥事件を尽く充分に処断し能わさりし実情は已むなきことなり

畑俊六大将

支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀漸く類廃、掠奪、強姦類の誠に忌はしき行為も少からざる様なれは

いまにして思えば、南京の虐殺も若干行われたことを私も認めている。 そして虐殺ばかりでなく、掠奪もたしかに行われていた。

岡村寧次大将

それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、 それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければならないと覚悟し

一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。

一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。

第六師団司令部を訪れた。着任日浅いが公正の士である同師団長稲葉中将は云う。 わが師団将兵は戦闘第一主義に徹し豪勇絶倫なるも掠奪強姦などの非行を軽視する、団結心強いが排他心も強く、配営部隊に対し配慮が薄いと云う

河辺虎四郎参謀本部作戦課長

華北にせよ華中にせよ、戦場兵員の非軍紀事件の報が頻りに中央部に伝わって来る。 南京への進入に際して、松井大将が隷下に与えた訓示はある部分、ある層以下に浸透しなかったらしい。

真崎甚三郎大将

軍紀風紀頽廃し 之を建て直さざれば真面目の戦闘に耐えずという云ふに帰着せり。強盗、強姦、掠奪、聞くに忍びざるものありたり。

これらの証言からわかるのは軍紀風紀は乱れ、命令系統は崩れ師団長以下は好き勝手なことを行っていたことがわかる。従って、盗難、殺人、強姦などは頻繁に行われていたも不思議ではない

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捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ
時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込(事)斬りたり

”捕虜7人いる。すぐに試し斬りをした。

俺も刀で彼(捕虜)を首と胴体に見事に斬った”

これは7人の抵抗できぬ捕虜を上官の命令なく、軍法裁判にもかけず試し斬りを行ったと。このような行為をあたかも日常茶飯事に行う残忍、冷血な性格を持った師団長が尊ばれる組織、大日本帝國陸軍、とはなんと恐ろしい組織と背筋が寒くなる。戦争が普通の人間をこのように血の通っていないまるで殺人ロボットのような人間に変えてしまうのか。

上記証言と中島日記により軍紀風紀は師団長以下大分乱れていた。上海事変時は参謀本部の不拡大方針によって南京攻略は入っていなかったが、第10軍の柳川平助中将の独断によって南京攻略が急遽決定され、参謀本部も後にこれを認めた。この柳川司令官のとった行動は統帥権干犯に値するもでこれを見ても命令系統の弛緩が読み取れこのような命令系統、軍律の弛緩した環境が戦乱の当初に現れこの頽廃な空気が陸軍全体に及んでいたと知ると、その後の日本軍の国際法を無視しての捕虜、市民の扱い、沖縄、小笠原諸島市民の虐待、等の原因の因になった軍隊組織の道徳観が既に南京事変の頃から現れていたということだ。

この計画変更により兵士への食衣料が不足し兵士へは民家からの徴発を許したことは65連隊の陣中日記にも述べられている。このような血生臭い戦場において女子、食料に飢えた兵士達に盗難、強盗を許可されればそれらの行為が強姦、殺人に及ぶこともあるのは火を見るより明らかだ。日本軍兵士達の行動が上海では比較的規律がとれていたのに南京では著しく荒廃したのはこのような徴発許可が主だった要因と言えるのではないか。

上記考察により一般市民への虐殺が起きる条件は揃っていた。実際の虐殺を扱った東京裁判の記録を含めた文献、証言、はネット、一般書にあるのでここでは省く。

三 東京裁判において松井石根司令官の戦犯判決は冤罪か

最後に松井石根方面司令官の戦犯としての処刑は適当な裁決か考察してみよう。

彼が絞首刑になったのは南京虐殺において兵士の虐殺、強姦を放っておいて何も工作をこうじない不作為の罪である。

 

東京裁判の松井大将の証言によると、虐殺は戦後知った、ということで南京攻略時は知らなかったと。日本陸軍では軍紀風紀を取り締まるのは師団長の責任で総司令官の任務ではないと。

検事と松井司令官の口頭弁論を読むと、松井司令官は師団長に軍の法規に逸脱した行為があったら報告するよう師団長以下に伝えたが南京を去るまで報告は受けとらなかったから虐殺等の事件はないと思っていたと。

 

中島日記による方面軍司令部は新市街地にあり南京市から車で25分かかる音楽堂の中にいたと中島日記に記されている。16、17、18日に行われた捕虜掃蕩のことは方面軍司令官は知らされず、その後も師団長達は報告を故意に怠ったと考えられる。つまり松井石根司令官は蚊帳の外に南京滞在中は置かれてたと推測できる。

 

松井司令官の権威が師団長達から軽く見られていたのは松井司令官が南京を去る日の1月23日の中島日記に中島師団長と松井司令官の会話から感じとれる。

 

従って松井司令官は南京虐殺は知らなかったのは事実で東京裁判で不作為の罪が課せられたのは虐殺を知っていて行動をとらないというより司令官の身でありながら知らなかった事に責任を取らされたと考えるべきだろう。

 

もう一つ松井石根司令官の南京事変で述べておきたい事は

上海事変の後、陸軍の不拡大方針のにもかかわらず柳川司令官の要求に屈し南京攻略を参謀本部に要求し、既定事実を作ってしまおうと東京からの命令をまたずに急遽南京へ向けて進軍した。

 

そのことが兵站不足を招き、市民からの徴発を許容し、それが軍紀風紀の弛緩を促し、捕虜、一般市民の強姦、虐殺に繋がっていく要因となった。彼の南京攻略への突如の変更の決定が南京虐殺の因になったと言えるだろう。

 

又許可を待たずに南京へ向かって軍を動かしたのは統帥権干犯になるが陸軍も陸軍で軍法裁判が南京事変で開かれたことはない。陸軍の軍法裁判はその後の経過を見ても戦果の結果次第によるものであってないが如くのものだった。

東京の参謀本部から12月1日付で公式の命令書を受けたが軍は既に南京近く迄来ていた。この南京攻略が日中戦争が日中和平の道を永久に閉ざしやがて太平洋戦争へと広がっていったということから最終的責任は陸軍参謀本部にあるが松井石根司令官の上海事変後の心変わりがその後の日本の運命に大きく左右したことの一端を担っていたとも言えるだろう。