YONISOMANASIKARA

身の回りの現実に起きていることはフィクションの世界より奇奇怪怪である

大東亜戦争肯定論(林房雄)に対する考察

これは林房雄氏の大東亜戦争肯定論の抜粋に触発され肯定論の批評と自分の太平洋戦争の対する考察を述べてみました。

参考にした大東亜戦争肯定論(林房雄)の抜粋へのリンクはこちらです。

★大東亜戦争肯定論(林房雄)【抜き書き】 - きりんたの日記

 

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彼によると大東亜戦争はペリー提督の黒船が浦賀に来た時から始まり1945年の無条件降伏で終わった百年戦争だったと。その発端となった19世紀は技術革命を経て世界で最も進歩した工業力で白色民族は世界を席巻する為あらゆる場所が植民地にされていった。アジア諸国も次々にその餌食になっていった。そのうねりの中でただ一国日本だけが抵抗し他国から犯されず独立を維持できた。その為にこの百年戦争は日本にとっては避けて通れない過程であったと。だから大東亜戦争も止むをえなかったと。

 

この日本も歴史の流れの中で木の葉のように翻弄されたという見方には頷ける点もある。ただ筆者がこれを太平洋戦争と呼ばず大東亜戦争と呼ぶ理由には疑問が残る。日本があたかもアジア諸国を植民地から解放しようと思い欧米と戦わなければならなかったという理由だ。真珠湾攻撃の直後の日本の知識層の感想を読むと彼と同じような考えの人が多い。この著者をはじめ大川周明、尾崎一雄、徳富蘇峰、横光利一等である。まあ戦前にこのような考えを抱くのはわかる気はするが戦後も日本がアジアの為に立ち上がったという考えに固執している人達が筆者を含む知識人の中にいるというのは私には驚きである。

 

戦争中の特に日本陸軍の行ったアジア諸国の残虐行為、二千万以上の市民の犠牲者を出しておいてもアジア諸国の為に戦ったと思う理由が知りたかったがこの抜粋にはみつからない。また戦前においても、筆者も述べているが、植民地朝鮮に対する統制、関与の仕方、満州、日中戦争の原因、環境を時間をかけて調べれば大東亜とか八紘一宇が戦争を行う為の口実にすぎないことを知るのはそれほど困難なことではないと思うが。だから私は大東亜戦争とは呼ばず太平洋戦争と呼ぼう。

 

しかし太平洋戦争後アジア諸国が独立したのは確かだがそれはアフリカ、中近東諸国にも言えることだ。日本が戦争をしなくても植民地の宗主国であるイギリス、フランス、オランダ等がドイツ、イタリアとの欧州、アフリカ戦線でかなり痛弊していたし、又米国のルーズベルトがチャーチルにアメリカ参戦の条件としてイギリスの植民地解放を条件にしていたという。このように戦後、植民地解放への条件は戦前よりずっと整っていた。確かに日本の参戦というより第二次世界大戦自体が植民地解放に多大な影響を与えたと言った方がいいだろう。悲しいことだがこの大戦の犠牲がなければ植民地、人権解放はずっと遅れた。歴史の皮肉さというべきか。

 

確かに日露戦争の結果がインド、中国、そしてベトナム等のアジア諸国が独立運動の活性化に繋がったが日本はそれらの運動に対して、政府レベルでは、助けるどころか宗主国の思惑を図って障害になったことが多かった。国民の知識層の中には、筆者もその1人だが、アジア諸国から欧米による植民地の鎖を解き放し自由を獲得するためにこの戦争を遂行するのだという理想を抱いていたが政治、軍事機関の野望とはかけ離れていた。しかし知識層は醜い部分には耳目を閉ざし理想を信じつずけた。

 

この日本の存亡危機の時に見せた日本知識人達の真実から顔を背け自分の信じるものにすがりついた心情は誰でも持っている人間の欠点の一つで我々はこのことを十分に胸に刻みつければならない。 ”オーウェルの問題”にも記されている、「我々の周りには有り余るほどの情報があるが何故僅かなことしか知らないのだろう」人間の知識の限界を暗示した言葉である。 

 

ところで日露戦争の背景を調べると日本は勝ったことになっているが実に幸運の連続だった。まず1902年に締結した日英同盟のおかげで露仏協定を結んでいたフランスの参戦を不可能にし、英国の助けによって戦争資金調達の為の外貨獲得、英国からのバルチック艦隊の航行中の状況についての情報提供、バルチック艦隊は英国の制御下の下にあったスエズ運河を使えず南アフリカの喜望峰を回らせられ又英仏の関係悪化を危惧し仏の寄港地が使用できず整備が十分に出来ない為艦隊は常に5から8ノットの低速度でしか航行できず奇跡の航海と呼ばれた。

 

ロシアの日本海会戦での大敗は日本軍の作戦面の勝利だけでなく遠距離を整備も満足にできていない痛弊した艦隊と地の利を生かした大日本帝国艦隊の差が明らかに寄与したと考えるのが妥当だろう。又ロシアはロマノフ王朝の崩壊を迎え日露戦の中で第一ロシア革命が起こり人心は戦争から離れていた。

 

だからポーツマス条約での停戦を日本も金も戦闘心もつき戦える状態でなかったにもかかわらずロシアは承諾しなければならなかった。日本がかなり弱っていた証拠には賠償金獲得を諦めたことでもわかる。

 

百年戦争のもう一つの理由は日本が欧米諸国から植民地化、その他諸々の圧力で追い詰められ太平洋戦争前に頂点に達したという説で筆者もこの考えをするグループに属する。確かに日露戦争前迄は特にロシアの南下政策に脅かされていた。著者の言うようにマクロ的に見れば歴史に翻弄され日本は追い詰められ選択がなかったように思える。しかし歴史の歩みにもっと焦点をあててみれば違う流れが見えてくる。

 

幕末から日露戦争の前迄は欧米諸国の植民地化に脅威を抱いていただろう。しかしそれらの日本への植民地化の恐れは日露戦争の勝利によって遠のいたと言えるだろう。日露戦争の終結した後は植民地化の脅威から帝国主義に向かうプロセスに伴って生まれてきた野心と列強国に対する競争心が風船のように膨張し遂には太平洋戦争を経て破裂したと言えるのではないだろうか。

 

このような圧力を作り上げる要素の一つはポーツマス条約で得た満州の様々な権益であろう。その行き着くところは植民地主義に乗り遅れアジアで巻き返そうと目論む米国と衝突するのは火を見るようり明らかだった。筆者は”日本人の必死の反撃にも関わらず、この強圧は年とともに増大し、組織化されて、太平洋戦争の直前にその頂点に達したのだ”と述べていますがその強圧は日本の日露戦争後の国民の実質以上の自信と自惚れとその夜郎自大的国民気質を利用し煽った新聞、雑誌等や知識層とその気質の基ずいた政府の方針、政策が作り上げたとも言えるのではないでしょうか。