YONISOMANASIKARA

身の回りの現実に起きていることはフィクションの世界より奇奇怪怪である

MH370 Historical Conspiracy Theory Reminiscent  of JAL123 Accident

 

Disappearance of MH370 is one of the most intrigued  events in recent history. There are many conflicting witness

accounts, authority’s  explanations and a lot of news media outlets. The author of book spent yeas  to

investigate  and  untangled them. one by one.  However also the book raised questions and  some left not answered.

Two of them are key to find the answer of the riddle.

 

How  ACARS and Transponders were switched off.  As most aviation experts suggest it is too complex to disable the

communication systems not only by  pilots  also high jackers .

 

Malaysian airline did not contract with Boeing on ACARS satellite service that  the satellite data unit  is supposed to the state of standby. It would not send flight identification nor user data..

However communication log provided by Inmarsat  included logon/logoff messages from the aircraft, and

the aircraft responding of 1 hour’s interval “ping” sent from GES(grand earth station). Am I missing something ?

 

Also Malaysian military's  reported after the aircraft  veered toward the west and U-turn , the flght altered flight  altitude several times. The aircraft 's transponder and ACARS were not operational at the time of U-turn, assumed the military radar used was the primary radar which is not able to  know the flight altitude.  I wonder if military's report is credible .

 

As the author suggest it has a smell of international conspiracy theory , the  Inmarsat log may be used to divert public’s eyes to the Indiana Ocean from the actual missing place or simply the log referring not MH370.

 

To shutdown ACARS and Transponder may be caused by electrical circuit outage or destroyed. The date of disappearance was few days before united military drilling “Cope Tiger” involving USA, Thailand, and Singapore,

 

While the preparation for the drill , one of flying object collided with MH370, and most of electrical circuit in E & E bay was destroyed with the state of communication system shutdown. After flying short period of time in the state of limbo , MH370 eventually  crashed in the Gulf of Thailand, or South China Sea.

In the book, various witness accounts  indicated the crashed MH370 at  offshores along Vietnam or the Gulf of Thailand, the South China Seas.

 

If it was the case , it is obvious , US would covered up monumental military blunder.

Victims of MH370 would be in same fates as 520 lives of JAL123 accident  in 1985.

Although official accident reportof JAL123  stated the bulk pressure door’s corrupts eventuated blowing up the tail fin of the aircraft and resulted crashes, some are suspicious that the tail fin was hit by missile or some flying objects during SDF military exercises.

 

Hoping the truth will come out someday , but as JAL123’s incident suggests, it wold be unlikely.

昭和の怪物 七つの謎

著者の豊富な歴史の知識と人脈によって披露された話から先の戦争を推進した又は影響を与えた人物達の行動と言動を知る事により太平洋戦争の勃発、無残な敗戦に至った背景をさらに考える事が出来た。

 

三つの性格「精神論が好き」、「妥協は敗北」、「事実誤認は当たり前」をあげ安部首相と似ていて選んではならない首相像という事だが東条は敗戦だけでなく国土壊滅の危機を齎した。

 

ただ疑問なのは周囲のものが彼の性格と知力を知りながら2年以上も首相をやらせていた事だ。日本の官庁、企業を見ても組織のトップの方針、行動が明らかにおかしくて変えようとする行動が起きないケースが多い。これは現在の安部首相と自民党の関係にも見られる。

 

一方、石原莞爾は論理的な考えを持つだけでなく周りの空気に左右されず行動できる日本人には珍しく自我が確立した人物ということがわかる。満州事変を企み実行した事や日米最終決戦などの論説を聞いていたのでt闘争を好む典型的な陸軍の軍人と思っていた印象は覆された。満州事変は彼の最終目的の為の恒久平和を目指すための手段だったと理解した。

 

もし彼の中国不拡大路線が実現されたならその後の歴史は大きく変わっていただろう。アジアの国々を欧米列国から植民地解放をし中国を含めた日本と連盟、東亜連盟、して米国との最終戦争に臨むには中国との戦争を終結させねばならなかった。この様な遠い将来を描いたビジョンは当時の陸軍に理解されるのは難しかっただけでなく当時の空気では軍人だけでなく国民も闘争心で固まっている中で平和的折衝は優柔不断、臆病に思われたのでは。

 

立場は異なるが現在9条について国民の間で改憲論争が起きているのと少し似ている気がする。9条は未来の世界平和見据え日本がその指導的立場に立てる条文と国民は隣国の軍事拡張、核戦争の可能性への現在の恐怖に捉えられた論争のように。彼の東亜連盟の構想が退くられたことは日本がこの戦争は大東亜戦争とか八紘一宇とか唱えてアジアの植民地解放の為の戦争だと言うことが空文句で欺瞞だったと言うことを物語っているのではないだろうか。

 

又彼の様に冷静沈着、哲学、信念、論理的思考、雄弁の術、下士官、若い兵隊間での人望、を備え持った人物が予備役に退けられたと言うことをしても大日本帝国陸軍の組織は戦争以前から問題を孕んでいたと考えられる。

 

戦後、石原莞爾氏は核爆弾の発明は大国同士の戦争を無くしていくだろうと述べていたように日本には恒久平和を目指す絶好の機会と捉え日本が道義的国家を各国に先駆けアジア、強いては世界の模範たるべきと考えていたはまさに石原莞爾の面目躍如だ。残念なことは彼は早逝し彼の世界平和の考えを政財界、知識層に影響、貢献することができなかった事である。

 

最終章の疑問は何故吉田茂は護憲に拘ったのか平和憲法との関わりに言及していないが改憲で標的になる憲法9条を守りたかった為ではないかと思う。氏は戦前からの戦争反対主義で日本が515事件や226事件の軍人によるクーデター、帝国軍人の戦争の遂行を目撃している。日本は再び軍隊を持ったら又同じ事が繰り返されると思った

から新憲法は軍部暴走から日本を守ってくれるから護憲を貫いたのでは。

 

 

 

JAL123の焼死体は何を物語っているのか(日航123便墜落 遺物は真相を語る)

 

JAL123墜落の新事実」において墜落場所において焼死体の炭化とジェット燃料に含まれていない筈のタールとガソリンの匂いがした疑問を本書では科学的に実際の焼損遺物を分析した結果、ジェット燃料には含まれていないかなりの割合でベンゼンと硫黄が含まれている事からガソリンと硫黄のタール状結合物が含まれていることが記されてる。墜落現場にいた目撃者のタールとガソリンの匂いを科学的に証明した事はJAL123墜落の背景を考える上で重要な鍵だ。尚自衛隊にある携帯火炎放射器に使用されてる武器燃料成分にガソリンとタールも含まれている。

この分析結果から推測されるのは自衛隊は証拠隠滅の為に火炎放射器を使用したのか。

 生存者の一人の川上慶子さんによると墜落した後暗闇の中で誰かが懐中電灯で照らしていたとの証言から自衛隊員はスゲノ沢にいた100人以上の死傷者の存在は知っていながら何もしていない。

 火炎放射器で事故の犠牲者に火炎放射器を向けるという非道な行為をするには事故現場を完全に封鎖し一人の目撃者を造らない万全の準備が必要だ。その様な準備なしに行ってもし目撃者が出た場合自衛隊の存続に拘る位重要である。しかし自衛隊は墜落現場を完全封鎖はしていない。JAL123は日本航空危険物のRRY,RRWに分類されてる放射性物質のラジオアイソトープを積んでいたので危険物調査を理由にして 完全封鎖をしようと思えばできた。

 JAL123墜落の時の放射性危険物の扱いは1992年の衆議院の議事録にも「放射性物質輸送事故対策会議」が墜落事件の翌日8月13日の未明に開かれれのが唯一の例であると記されている。

 従って火炎放射器を使用した可能性は薄いと思う。著者が分析した遺物や遺体に放射物の感染の調査をしたらどの様な値が出るだろうか興味深い。

 

 次に考えられるのは爆発物、ミサイルとか、が機体を爆破しその爆発物にガソリン、タールが含まれていたケースである。上野村の中学校で事件当日の目撃談を纏めた「小さな目は見た」に稲光、雷の様な光と音が記されている。そして墜落の翌朝まで続いた火災である。墜落の機体の焼損状態から判断するとジェット燃料による機体の爆発の可能性は低いとと考えられるとすれば何が稲光や焼損した遺体や破損物を炭化するまでの火災を発生させたかと考えると爆発物による可能性がに辿り着く。

 

 一方別の目撃者の証言にある赤い物が墜落する前に機体の下に見えたとか、赤い流星の様なものがJAL123を追うように飛んでいたという赤い物体である。加えてJAL123を追尾していた2機の戦闘機である。

 

 これらの証言から考えられるのはミサイルみたいなものが機体に付着又は密着して墜落と同時にこの物体も機体と一緒に爆発したという考えられる。ミサイルみたいなものは戦闘機から発射されたか、相模湾上空で垂直尾翼が破損した時か、又は他の理由か、は分からない。ミサイルの弾頭にナパム弾みたいなもが搭載されていればゲル状のタールとガソリンを含む。

 

 では自衛隊は墜落地のフェイクニュースを運輸省に送りNHKに放送させたか。それは爆発物の証拠物を引き上げることと、高濱機長、副操縦士、機関操縦士の遺体を確認し特に機長の遺体は隠してしまう為である。歯型と指の一部が発見されたがこれらは小さいものなで見落とされた。

 

 高濱機長は元自衛隊員で自衛隊の内情も政治的背景も十分理解していて垂直尾翼の落下は気付いてないかいないかもしれないが事故の原因が自衛隊の演習によるミサイル関連の為という事は薄々感知していたと思われる。

 異常音の後の即決のスコーク77の発信と、乗客のとった窓から見えた黒点の存在は機長も目撃しいたと思われる。却って高濱機長が異常音の原因を感知していないと考えるのが不自然ではなかろうか。

管制塔、日航社内との会話にミサイル の話はされてたかもしれないが公開されたVRからは機長がミサイル について言及している部分は消されたのではなかろうか。

多分ミサイルのような誘導弾は機体を狙った者でなくプログラムの欠陥事故で機体を追うようになってしまったのではないかと信じたい。追尾する戦闘機は機長に誘導弾が追尾している事を知らせる為と着陸時の危険性の警告する為ではなかろうか。 

 

 操縦室の3人がミサイルが機体に衝突した事を知っていた可能性を物語るのは日航副社長が墜落の後に行った記者会見で原因について聞かれた時「ミサイルに打ち落とされた」と言ったとか、又後に被害者の家族が日航の社長に官邸に案内してくれと頼んだらぶるぶる震えだし殺害の恐れてなどを呟いたとの態度が荒唐無稽でなく真相の一面を映し出しているのでは。

 高濱機長が日航の社員との交信で言及したのでその情報が日航の交信した者から社長、副社長に伝えられたとしたら。又中曽根総理は翌日の13日に日航社長を官邸に呼んでいる。それは中曽根総理は日航が墜落の原因をどの程度知っているのか探り出し日航が自衛隊の関与を知っているので政治的背景を説明し口止めと日航社内に緘口令をひかせ、その時墜落の真実が漏洩したら命は保証されないとか脅かしたかもしれない。

 そして中曾根首相はJAL123との関連が薄弱の印象を残す為と彼の罪の意識を少しでも和らげる為JAL123関係者からなるべく遠のいた。

 ボイスレコーダーを解読してみると機長、操縦士と日航との会話の部分は整合性がなく「了解しました」と何回も答えているが何を了解しているのかはっきりしない、操縦室と日航社内との交信の一部分は消されていると判断する。又18時24分に機長が「何か爆発したろ」と言った後、爆発の原因に関した会話がされていない。普通原因の推測したり客席の搭乗員に客室内の点検をして何か破壊されてるかして貰うだろうが異常音に関しても全油圧制御系の異常についての会話が全然ないのは不自然だと思う。

 

 日航はボイスレコーダー自身の記録を遺族の為とか言って公開を拒否しているということは公開したVRの記録と日航の現存しているものは違うという事を自白しているに等しい。迷惑する遺族とは多分操縦席の3人の遺族のことで本物のVRが公開されると彼等の会話は国家を貶めそれが真実の証言にも関わらず遺族に迷惑を及ぼすという事と察せられる。真実を暴露して国家の威信を傷つけた者は裏切者の汚名を着せられるのは国内外に関わらず同様だ、国家秘密を漏らしたジュリアンアサージやエドワードスノードンが故国を追われ他国に亡命しなければならないように。

 

 まだ日航、東京管制塔、米運横田管制塔が1985年8月12日の通信ログを保管していれば公開されてるボイスレコーダーの記録と照らし合わせば修正されている部分と会話の中身がわかるかも。

 真実を知っていると思われる中曾根首相、日航社長、JAL123と通信した東京羽田管制塔通信員、日航社員の人達、自衛隊の上層部、運輸省、 防衛庁の上層部人達は真実を墓場まで持っていくそうだが彼等に善悪に拘る精神があるならば何がそうさせるのか。やはり欧米でいう”For The Greater Good”、個人の正義を貫くより国家を守る事が大事か、それとも自分の平穏な日々を乱されたくないか、又はただ権力者に盾突きたくないだけかわからないが、JAL123墜落事件が戦後日本の民主主義国家の成熟度を試す挑戦だったが果たして後世の歴史はどう評価を下すのだろうか。

 

 

 

JAL123墜落後の防衛庁自衛隊の不可解な行動と証言

JAL123墜落事故は悲惨な航空事故としか記憶になかったが最近ネットでこの事件に関する疑問を知る事によりもっと詳細を知りたくて青山透子氏の「日航123便墜落の新事実」に辿りついた。

自分で調べていく内にさらなる疑問にぶつかった。疑問はたくさんあるがこの本と重複にならない疑問だけを挙げてみた。

 

事実1 墜落のあった翌日の朝2時30分に海上保安庁が駿河湾、相模湾にドアーが外れた時乗客が落下した場合の為に救援隊を送ったと。その内訳は人員161名、巡視船艇3隻、7時10分頃に航空機3機。

 

疑問  この時間帯には墜落したことだけが判明していて、ボイスレコーダーもフライトレコーダー発見されていない。JAL123墜落に関してはスコーク77を発信した事とJAL123機長と管制官と交わした会話しか分かっていない。このような不確かな情報しか分かっていない時点で海保は相模湾付近にこのような大掛かりな救援隊を送る判断をした事が疑問だ

 

推論  海保は相模湾上空でJAL123の垂直尾翼が自衛隊の訓練で飛ばされた事を既に知っていたのでは。だからその証拠、ミサイル の標的機等、を早急に回収して、垂直尾翼衝突の事実の隠蔽を試みた。13日の午後に護衛艦「まつゆき 」が垂直尾翼の一部を偶然発見したとされてるが、「まつゆき 」は尾翼の落下を目撃したので短い時間で発見することができたと推測できる。

 

事実2 ボイスレコーダーによると機長が異常音を聞いてスコーク77を発信した時急減圧が起こり航空機墜落まで操縦室の3人は酸素マスクを装着せずにいた

疑問  操縦室の3人は急減圧の後20分余り高度2万フィート以上の高度を操縦していたがそんな事は可能なのか。

 

JAL123と似たような急減圧を起こした航空事故がサウスウエスト航空の812便で2011年の4月にあった。航空高度24000フィートで150cm x 20cm程度の穴が胴体の横に空き急減圧を起こし5分以内に11000フィートに降下したが酸素マスクを装着しなかった搭乗員2名が失神した。機体はボーイング737でJAL123の急減圧を起こした圧縮隔壁の穴は2m平方でほぼ同じ。便812の例を見ると操縦員の3人が20分近く酸素欠乏の状態で異常もなく操縦できたとは考え難い。

 

推論  JAL123で急減圧は起きなかった。だから公の原因の圧縮隔壁原因説は崩壊する。

 

事実3 墜落事故のあった数分後に航空自衛隊の百里基地からスクランブル命令でファントム戦闘機2機を発信させた

 

疑問  救援の為なら墜落位置はJAL123がレーダーから消滅した地点でほぼ分かっているのだから救援機かヘリコプターを送るべきで戦闘機は救援もできないので通常は墜落事故では発進されないと思う。

又「日航123便墜落の新事実」によると墜落以前に同型の戦闘機がJAL123の後を飛行していたのを目撃している人が複数いるが防衛庁は否定している。スコーク77が発信されたので自衛隊機がスクランブルをかけたという事なら防衛庁は十分に大衆を納得できるのに敢えて否定したことに疑問を覚える。

 

推論  墜落前の飛行を隠す為墜落地点確認という理由で飛ばせば墜落前後の飛行と目撃者の証言をうやむやにさせる効果を狙った。それでは墜落前の飛行とその事実を防衛庁が否定したい意図は何なのか。

墜落前の戦闘機の存在はJAL123墜落と自衛隊との関連を強めるものだ。本書「新事実」が指摘していたように横田基地への着陸を阻止しもっと閑静で目撃者がいない場所へ誘導して不時着させようと試みてたのか。

    

 

事実4 2012年の墜落当時に米軍救援機C130操縦士のアントヌーチ氏の証言によりヘリコプターUH1の救援を上官から止められた。又防衛庁は米軍機C130UH1ヘリコプターが墜落地点に存在した事実は知らないと証言している事。

生存者の落合氏の証言でもUH1ヘリコプターが引き返していった事、当時空自救援責任者の松永空将も「米軍機の存在は当日は知らなかったと」、以降は知っているという意味では、航空事故報告書に救援調整本部が19時15分に米軍機C130からの墜落地点の情報を横田TACAN経由で聞いたとも記されてる。

 

疑問  救援に関して重要で明らかに存在した事実を何故防衛省は否定するのか。

 

推論  考えられる理由は防衛庁が墜落後早期の米軍救援を断った事を公にしたくない。軍事評論家小川和久氏によると官邸での対策会議に参加していた知人の政府要人が救援の主導権争い、警察組織か自衛隊か、2時間近く決まらなかったと言っていたので米軍救援がはじまると面子が潰されるという理由らしい。

 

事実5 事故報告書の航空機の破壊状況 エンジンで焼損が認められたのは第一と第二エンジンの付け根だけである。左右の主翼には焼損の跡が見られず。機首、操縦席部分は跡形もなく焼失していたが操縦室のパネルP2P4 P5P6は一部だけを残し火災を免れた。全てのドアは回収され一部を除き焼損の跡なし、遺体はスゲノ沢で発見された遺体以外は離断、焼損、炭化が目立った。

 

疑問  航空機の火災は両翼にあろジェットエンジン燃料タンクのジェット燃料が燃えるのがほとんどである。しかしJAL123の場合はエンジン、両主翼は第一、二のエンジンの付け根を除いて焼損の報告はされていない。又JAL123 は伊丹空港迄の燃料を積んでいるだけで途中で捨てなくても墜落した時点では燃料の残りは少量だったと思われる。又炭化、焼損の主、副、機関操縦士、乗客の周囲にあった胴体も大破したが、全てのドアも、操縦室のパネルも一部を除いて焼損の跡がない。航空機の残存物体から推測すると航空機自身の火災は中にいた乗客を炭化する程の強烈な熱を伴っているとは思えない。だから遺体は航空機の火災ではなく他の原因で焼損したと思われる。報告書にも目撃者の言にも広範囲の山火事が発生したようでもない。

    

    

推論  航空機の破壊具合と遺体の状態から本書に記されているように遺体は墜落の時、別の物体、ミサイルのようなもの、又は遺体からガソリンとタールの匂いの混じっていたとの証言から推測すると墜落の跡、火炎放射器を使って遺体、その他、航空機破損物体を処理した説はかなり信憑性を帯びてくる。

その傾向はまだ墜落原因の解明がされていないのに自衛隊員が原型の形を残していた後部圧力隔壁をカッターで5分割にしたという信じられない行為だ。自衛隊上層部から密かに証拠品になりそうな物体は全て破壊しろという命令があったとすれば理解できる。

 

事実6 事故が発生した墜落地点の混乱があり救援隊の到着が13時間遅れた

 

疑問  正確な墜落位置の情報は米軍機のC130が横田TACANに墜落後の19時15分に送信され東京救難調整本部に送られた。救援調整本部は異常音発生の18時26分からJAL123と18時59分に航空機がレーダーから消える迄交信していた。いわばJAL123墜落事件情報の中心を担っていた。その後墜落地点の正情報と誤情報が入り混じり救援隊の到着の遅れを生じた。正情報と誤情報のソースを整理してみると混乱情報のソースが浮かび上がってくる。正しい情報は米軍ヘリ、朝日新聞ヘリ、空自戦闘機F4、防衛庁救援ヘリからで、誤情報は氏名不詳の110番情報に始まり防衛庁から運輸省へ、防衛庁より新聞社へ、防衛庁ヘリ、陸上自衛隊ヘリである。

 

推論  防衛庁に運輸省、新聞社を含め関連方面に誤った墜落地点を広める意図が見られる。524人の救助を犠牲にしても墜落地点で自衛隊が処理をしなければならない事があったからである。思いつくのは墜落の原因に関係した物的証拠を破壊、隠秘が考えられる。

 

事実7 公開されたボイスレコーダーの18時31分36秒から18時36分の会話で機長が何か声にならない重大な事を見つけたらしいがその後の機長と副操縦士、機関操縦士の会話が成り立たない。R5のドアーが破損して異常降下を試みている。

 

疑問  18時33分頃から異常降下を行ったがその後7分間フライトレコーダーは高度を24000フィートを保っていて異常降下の兆しは記されていない。しかし操縦室の会話で高度が降下しないのを問題視している会話がない。降下は計器が壊れていても視界の動きで分かるはず。又機長がR5のドアーの異常は計器から発見されたと思うが何故異常音した18時24分あたりでなく7分も経過した後に発見しているのか。R5ドアーの異常を発見してから異常降下を試みたボイスレコーダの会話はまるで整合性がないように思える。

 

 推論 事故調査報告書の見解を覆すような重要な会話がなされたのを隠す為にボイスレコーダーの内容が捏造された疑念が湧く。

 

 

結論  上にあげた事実をつなぎ合わせると自衛隊の行動が深くJAL123の墜落に関係しており推測できるシナリオは自衛隊が訓練中にJAL123の飛行に偶発的か故意に航空機に墜落の原因を創った事を隠す為、救援隊の到着を遅らせ、墜落の証拠の消滅、特に操縦席にいた3名の生命を抹殺、そして操縦士の死をカモフラージュする為に他乗客の焼損処理を行った。首相、米軍、運輸安全委員会、自己調査委員会、日航社長等に情報隠蔽を理論的か強制的に同意させたのではないか。

 

これは戦前の一部の軍人が反乱を起こした226事件のように一部の自衛隊員が暴発した行為だがこの事件では防衛庁上層部、政府関係者が政治的理由で自ら覆隠に協力した。JAL123事件は政治、官庁の上層部を含めて行われた国家的規模の犯罪で民主主義国家の根幹を揺るがす意味では犯罪自身の凶悪さももとより日本の将来に暗い影を落とすという意味では戦前の226事件に似ている。

 

現在では原発、沖縄、森友、加計、自衛隊日報問題の処理、公文書改竄、破却を見ても、政府、官庁、検察、警察官、裁判官、防衛省、報道関係社、経団連の癒着によりもはや日本は民主主義国家の体をなしていないが、ところで航空事故調査委員会は日航事故の約1トンある重要資料を2000年に断裁、破棄、焼却してしまった。

その兆候は既に1985年にもあり、JAL123事件はその現象の顕れと言えるだろう。JAL123事件の処理を誤ったのも現在の日本に至らしめた一因とも言えるるのでは。 

   

南京事件の別な観点からの考察

2007年に温家宝首相来日の際「南京事件の真実を検証する会」から送られた南京事件の質問状について検証してみたいと思う。南京事件は78年前に起こった事件で日本軍が市民、捕虜をあわせて30万人近くを虐殺したと言われ、虐殺の人数に問題があるとか南京事件で虐殺は全くなかった等が論争の因になっています。

 

否定派も肯定派も目撃者の証言や写真、残存のドキュメントをあげてそれぞれの論理の正しさを証明しようとしてますが、所詮78年前の出来事で真実を解き明かすのは不可能です。だからお釈迦様が2500年前に語られた真実の求める方法に従って私の参照できる情報を使って解析を試みてみました。その前にお釈迦様の真実を求める方法をおさらいしてみます

 

これはKalama Suttaというお経にのっています。

 

人の言葉を単に信じない

噂、呟き、伝説だからと信じない

言い伝えだからと信じない

現在迄信じられてきたニュースだからと信じない

宗教の聖書とか神の言葉だからと信じない

論理的だからと信じない

常識とか誰かの推測によるからと信じない

哲学的だからと信じない

自分の予測、意見、見方にあっているからと信じない

専門家とか権威者が言ったからと信じない

自分の尊敬する人とか先生が言ったからといって信じない

 

自分の経験、信条、見識に照らし合わせ、体験し、立証できれば自ずから真実が顕れる

 

それでは温家宝首相に対する質問から入りましょう、私の考えの部分はイタリックの太字にしてあります

 

一、故毛沢東党主席は生涯に一度も、「南京虐殺」ということに言及されませんでした。毛先生が南京戦に触れているのは、南京戦の半年後に延安で講義され、そして「持久戦論」としてまとめられた本の中で「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」という批判のみです。

 

30万市民虐殺などといういわば世紀のホロコーストとも言うべき事件が本当に起こったとすれば、毛先生が一言もこれに触れないというのは、極めて不自然で不可解なことと思います。閣下はこの事実について、どのようにお考えになられますか?

 

毛沢東の率いる紅軍は第二次国共合作を構築し八路軍として日中戦争に関わっていた。毛沢東は日中戦争を国民党の力を弱らせることに使い南京が日本に攻略された時は喜んだと。だから南京事件の詳細を南京事件の起きたあたりでどのくらい知っていたかは疑問だしこの「持久戦論」はゲリラ戦における戦略を述べたもので虐殺に言及がなくても不思議ではない。又毛沢東が生涯に一度も言及していないなんて毛沢東以外にわかるはずもないし、このような言い回しには質問者の心底に何があるかを感じさせる。

 

二、南京戦直前の1937年11月に、国共合作下の国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置しました。国際宣伝処の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』によりますと、南京戦を挟む1937年12月1日から38年10月24日までの間に、国際宣伝処は漢口において300回の記者会見を行い、参加した外国人記者・外国公館職員は平均35名と記録されています。

 

しかし、この300回の記者会見において、ただの1度として「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と述べていないという事実について閣下はどのようにお考えになられますか。もし本当に大虐殺が行なわれたとしたら、極めて不自然で不可解なことではないでしょうか?

 

中央宣伝部国際宣伝は国民軍が外国の記者を使って日中戦争における日本の悪逆非道を海外に宣伝する目的で作られた組織で南京虐殺に触れていないことが却っておかしい。

この質問は極秘文書を主題にした中野修道氏の「南京事件国民党極秘文書から読み解く」を基にして作られた。本の中に中央宣伝部国際宣伝外国記者を使って南京虐殺をニューヨークタイムズに発表したりとか宣伝本の「戦争とは何か」の本を刊行したとか書かれてる。質問者の立場、虐殺否定、からすれば国民党の国際宣伝部の記者会見の内容はまず信用できないはず。それなのにその記者会見に南京虐殺に触れていないから南京虐殺がなかったは質問者側の否定の証拠探しに”藁をも掴む”心境が汲む取れる。

 この質問は肯定派から起こされる質問で、中国の宣伝機関が何故「南京虐殺」という言葉に触れないのか。

だから多分政治的な理由より技術的な理由で南京虐殺が出てこないのだろう。全ての記者会見の内容は記録に含まれていないとか南京虐殺を別な呼称で呼んでいたとか連合国側から何らかの理由で南京虐殺の話をするのを止められていたとか。

 

三 南京安全区に集中した南京市民の面倒を見た国際委員会の活動記録が「Documents of the Nanking Safety Zone」として、国民政府国際問題研究所の監修により、1939年に上海の出版社から刊行されています。それによりますと、南京の人口は日本軍占領直前20万人、その後ずっと20万人、占領1ヵ月後の1月には25万人と記録されています。この記録からすると30万虐殺など、ありえないと思いますが、閣下はいかがお考えでしょうか?

 

南京事件の時の人口について色々な情報があるがその時の状況を考えれば正確な数字を把握するのは不可能だろう。その中でも一番信頼のおける数字は国際委員会の活動記録に見える南京市の人口が事件前に20、事件1ヶ月後に25万人、これは質問状も国際委員会のデータを使っている。これは市内外の市民が全て安全区に避難したと仮定している。安全区は難民地区みたいなところで正確な人数を把握することは比較的容易だろう。南京事件の1ヶ月後は安全区外にいた市民は安全区に避難してくるはずだから25万に増えたのは何も不思議でない。ということは事件前は最低30万人以上市内外に住んでいたと思われる。11月23日に南京市政府が国民政府に将来の食料の必要量を試算を含んだ書簡には50万と記されている。又極東国際裁判の記録に南京事件の数週間前は南京市と南京市周囲近郊の市民は五十万人と記されている。東京裁判の記録は当時の生き残った日中市民、日本の軍兵士、外国の記者、政府、宗教関係で南京事件の前後に南京市にいた、公文書、日記、写真、フイルム等から集めたものでかなり南京事件を扱った書物の中では最も信頼がおけるだろう。だから虐殺の犠牲者が20万から30万人は誇大とはいえない。 

 

四 さらに「Documents of the Nanking Safety Zone」には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されておりますが、殺人はあわせて26件、しかも目撃されたものは1件のみです。その1件は合法殺害と注記されています。こういう記録と30万虐殺という貴国の主張しているところとは、到底両立し得ないと考えますが、閣下はいかが思われますか?

 

この26件は国際委員会に報告されたものだけで報告されないものや、報告不可能なもの、強姦、残虐行証拠隠滅の為殺したり、は含んでいません。

上に述べてきた論拠は温家宝質問状の中の論法では南京虐殺は否定できないことを示した。しかしながら又南京虐殺があったことを示す論旨でもない。

 

一 捕虜、俘虜の虐殺はあったか

南京虐殺に関連した文献で何が最も信頼できて真実を語っているかを考えてみた。犯罪事件の決め手になるのは被告側の証言、自白であって南京事件に当てはめれば日本軍側、の証言、自白が鍵になると思った。しかも戦後長く経ったものでなく、戦時中、終戦直後か長くとも2−3年以内のものが最も信頼性がある。

数々の証言を扱ったビデオや記事の中で小野賢二氏の元第65歩兵連隊の兵士による証言、陣中日記をビデオに撮った2015年の10月に放映された「南京事件 兵士たちの遺言」の中に公開されている南京事件に関わった兵士の陣中日記は信頼性の高い資料だろう。その陣中日記には1万7千人以上の捕虜が揚子江岸で虐殺され屍体は揚子江に流されたと語る。

一方南京虐殺否定派はこのビデオの記録に語られてるいるものは捕虜を解放しようとした時暴動になったので自衛の為発砲しやむなく銃殺したもので虐殺ではないと主張する。論拠は南京攻略に参加した平林貞治少尉の証言、両角業作大佐の手記、栗原伍長の証言、田山芳雄少佐の証言、箭内 亨三郎准尉の証言と全て自衛発砲説を語ってる。しかしこれらの証言、手記は戦後行われたもので、一方65連隊兵士 達の日記は南京攻略時に書かれたものである。戦後日本が安定した後目撃談を語る人達は自分の名誉、家族のこと、自分の社会的地位によって醜い真実を赤裸々に語るのは余程勇気がいることです。その点戦場での日記は明日の命もわからない運命にさらされたものが嘘、偽りを日記に残しておきたいとは思わないのが人情でしょう。65連隊兵士の日記の方が信頼性が高いことは明らかです。

65連隊の陣中日記には1万7千人近くの捕虜が12月16、17、18の後数日に亘って行われたとあり、銃殺だけでなく、銃剣や刀で刺殺と述べられている。また、捕虜の中には老人、子供も含まれていたと。日本兵は捕虜をお客さんと呼び「今晩はお客さんがきてお客さんを処理するんだ」と話していたと。12月17日の夜1万人の捕虜を囲いに集め銃座を囲いの周りに造り機関銃の銃弾が交差して流れ弾に当たらないように松明を囲いの両側に立てその松明の間を撃つようにしたと書かれている。又野戦電話とケーブルが囲いの周りに設置され連隊本部との連絡に使われた。このような詳細の描写から捕虜の虐殺はあらかじめ計画されたもので連隊本部、又はその上の上層部の指示で行っているものと思える。

第65歩兵連隊が属していた103旅団の旅団長の山田梅二少将の陣中日記は65歩兵連隊の陣中日記に書かれていることを裏ずけている。

山田日記 

 12月15日

  捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
  皆殺せとのことなり

旅団長が捕虜の処置について南京城に問い合わせをしている。問い合わせは誰にしているのだろう。指示を仰いでいるのだから旅団長より上の師団長か参謀長か。常識で考えて数師団が集結しているところで師団長独自で決めることはなく参謀部だろう。参謀部が捕虜を皆殺しの返答をしたということは南京攻略に参加した全ての師団の捕虜のことを意味している。これと65連隊の陣中日記を照らし合わせると捕虜は皆殺しが軍の方針だったとしか読みようがない

 12月18日

  捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す

 12月19日

  捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ

捕虜の始末(虐殺)が少なくとも19日迄続いていたことがわかる。そして江岸とは揚子江岸のことで65連隊の陣中日記の揚子江岸での捕虜虐殺を裏ずけている。

南京攻略に参加した16師団長の中島今朝五中将の陣中日記にも捕虜虐殺の理由らしきものが述べられている

中島日記

12月12日

大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので

ここでも軍の方針が捕虜を片っ端から片付けると。否定派は片ずけるとは放免することと解釈すると思うが、この後”五千一万の群衆だと武装を解除することもできず、唯彼等が全く戦意を失って付いて来れば安全だけど一度騒ぎを起こしたら始末に負えない”と殺すことを意味している

12月13日

此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり

7、8千人の捕虜を始末、殺す、するのは大変で壕が必要だがまだ見つからないと、65連隊が処理した揚子江沿いが壕にかわる可能性を含んでいる。

12月15日

一、敗残兵掃蕩

 十三日夜より各方面を掃蕩するの必要を感じ軍より各師団に区域を配当して之を行ふことなれり

敗残兵掃蕩とは捕虜の始末、つまり虐殺だろう、各師団に区域を配当してと言っているが65連隊が属す103旅団も揚子江岸で処置することが決められたのだろう。中島日記からも捕虜の始末は南京攻略に参加した全ての部隊に課せられていたことが伺える。

一、十六日十七日二日間を以て掃蕩することとし両旅団に区域を配当し各隊は各併行路に一部隊を進ましめて隘路の出口に至りて一泊し翌日又同様にして宿営地に帰還せしむることとす

16日と17日にかけて捕虜の始末をした。これは陣中日記にも65連隊が同じ日に一万五千人近く揚子江岸で処理したと。中島少将の16師団はその前の日記からすると1万人近くの捕虜を処理したのだろう。処理に選ばれた場所はわからないが壕を見つけたのだろうか。

これらの戦時中のどの陣中日記をみても捕虜を放免することは考えていない。戦後行われた手記や証言では捕虜を揚子江沖の中洲へ放免してと言ってるのは自分達の戦時中の行為を隠す為だということは陣中日記から明らかだ。

虐殺された捕虜の数は山田少将の12月14日時点での1万4千777名を最低とし、投降者、略奪による捕縛者は増えている、から65連隊が処理しただけでも二万人近くに上るのでは。ここまでのデータでは正確な数は問題でなく南京虐殺は捕虜に関しては行われたことは否定できない。

否定派は南京事変の時沢山の便衣兵が市民に混じっていたから止むを得なかった、便衣兵は軍法裁判で判明されたら死刑を課せられる。しかし軍法裁判を開いた形跡はないし、これらの日記からわかるのは殺戮の前に軍法裁判を開く意志などは全くなかったということがわかる。

又南京事件の時は日本軍も国民政府も宣戦布告を交わしていないので国際法は適用されないと言うものもいるだろう。それならば便衣兵云々の口実も使えないだろう。それは何を意味するか?中国に居住していた日本人が暴動を起こし国民政府の軍隊、市民を殺傷して国民政府を倒そうとした、これは暴虐極まるテロリスト行為か野心丸出しの侵略行為である。しかし上海、南京事件の前の満州事変で日本はこれと同じ侵略行為をやっている。

二 南京市民の虐殺はあったか

では次に一般市民における虐殺、女子への強姦はどれくらい行われたのか。これらの証言、手記はほとんど犠牲者か国際委員会、外国記者、宗教者関係のもので直接目撃したものはあまりにも少ない。

加害者からの証言は見つけにくいがここで中島日記に戻って解読してみると日本兵士の行動パターンが見えてくる。

中島日記

12月13日

天文台附近の戦闘に於て工兵学校教官工兵少佐を捕へ彼が地雷の位置を知り居たることを承知したれば彼を尋問して全般の地雷布設位置を知らんとせしが、歩兵は既に之を斬殺せり、兵隊君にはかなわぬかなわぬ

”天文台付近の戦闘で工兵学校の工兵少佐を捕まえ彼に地雷の位置を知っている筈なので尋問しようと思ったら、歩兵が既に彼を斬殺してた、全く兵隊君には敵わない” 捕虜にして抵抗のできない者を一兵卒が上官の許可なく斬殺しその上官は歩兵をなじるどころか感嘆を匂わした冗談を言っている。この文からわかるのは軍紀風紀がかなり頽廃していることがわかる。この軍紀風紀が緩んでるいることは軍の上層部も嘆いている。それらを裏ずける軍上層部の証言である。

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松井石根司令官

南京事件ではお恥しい限りです。

我軍の南京入城に当り幾多我軍の暴行奪掠事件を惹起し、皇軍の威徳を傷くること尠少ならさるに至れるや。

然れとも戦闘の混雑中惹起せる是等の不祥事件を尽く充分に処断し能わさりし実情は已むなきことなり

畑俊六大将

支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀漸く類廃、掠奪、強姦類の誠に忌はしき行為も少からざる様なれは

いまにして思えば、南京の虐殺も若干行われたことを私も認めている。 そして虐殺ばかりでなく、掠奪もたしかに行われていた。

岡村寧次大将

それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、 それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければならないと覚悟し

一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。

一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。

第六師団司令部を訪れた。着任日浅いが公正の士である同師団長稲葉中将は云う。 わが師団将兵は戦闘第一主義に徹し豪勇絶倫なるも掠奪強姦などの非行を軽視する、団結心強いが排他心も強く、配営部隊に対し配慮が薄いと云う

河辺虎四郎参謀本部作戦課長

華北にせよ華中にせよ、戦場兵員の非軍紀事件の報が頻りに中央部に伝わって来る。 南京への進入に際して、松井大将が隷下に与えた訓示はある部分、ある層以下に浸透しなかったらしい。

真崎甚三郎大将

軍紀風紀頽廃し 之を建て直さざれば真面目の戦闘に耐えずという云ふに帰着せり。強盗、強姦、掠奪、聞くに忍びざるものありたり。

これらの証言からわかるのは軍紀風紀は乱れ、命令系統は崩れ師団長以下は好き勝手なことを行っていたことがわかる。従って、盗難、殺人、強姦などは頻繁に行われていたも不思議ではない

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捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ
時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込(事)斬りたり

”捕虜7人いる。すぐに試し斬りをした。

俺も刀で彼(捕虜)を首と胴体に見事に斬った”

これは7人の抵抗できぬ捕虜を上官の命令なく、軍法裁判にもかけず試し斬りを行ったと。このような行為をあたかも日常茶飯事に行う残忍、冷血な性格を持った師団長が尊ばれる組織、大日本帝國陸軍、とはなんと恐ろしい組織と背筋が寒くなる。戦争が普通の人間をこのように血の通っていないまるで殺人ロボットのような人間に変えてしまうのか。

上記証言と中島日記により軍紀風紀は師団長以下大分乱れていた。上海事変時は参謀本部の不拡大方針によって南京攻略は入っていなかったが、第10軍の柳川平助中将の独断によって南京攻略が急遽決定され、参謀本部も後にこれを認めた。この柳川司令官のとった行動は統帥権干犯に値するもでこれを見ても命令系統の弛緩が読み取れこのような命令系統、軍律の弛緩した環境が戦乱の当初に現れこの頽廃な空気が陸軍全体に及んでいたと知ると、その後の日本軍の国際法を無視しての捕虜、市民の扱い、沖縄、小笠原諸島市民の虐待、等の原因の因になった軍隊組織の道徳観が既に南京事変の頃から現れていたということだ。

この計画変更により兵士への食衣料が不足し兵士へは民家からの徴発を許したことは65連隊の陣中日記にも述べられている。このような血生臭い戦場において女子、食料に飢えた兵士達に盗難、強盗を許可されればそれらの行為が強姦、殺人に及ぶこともあるのは火を見るより明らかだ。日本軍兵士達の行動が上海では比較的規律がとれていたのに南京では著しく荒廃したのはこのような徴発許可が主だった要因と言えるのではないか。

上記考察により一般市民への虐殺が起きる条件は揃っていた。実際の虐殺を扱った東京裁判の記録を含めた文献、証言、はネット、一般書にあるのでここでは省く。

三 東京裁判において松井石根司令官の戦犯判決は冤罪か

最後に松井石根方面司令官の戦犯としての処刑は適当な裁決か考察してみよう。

彼が絞首刑になったのは南京虐殺において兵士の虐殺、強姦を放っておいて何も工作をこうじない不作為の罪である。

 

東京裁判の松井大将の証言によると、虐殺は戦後知った、ということで南京攻略時は知らなかったと。日本陸軍では軍紀風紀を取り締まるのは師団長の責任で総司令官の任務ではないと。

検事と松井司令官の口頭弁論を読むと、松井司令官は師団長に軍の法規に逸脱した行為があったら報告するよう師団長以下に伝えたが南京を去るまで報告は受けとらなかったから虐殺等の事件はないと思っていたと。

 

中島日記による方面軍司令部は新市街地にあり南京市から車で25分かかる音楽堂の中にいたと中島日記に記されている。16、17、18日に行われた捕虜掃蕩のことは方面軍司令官は知らされず、その後も師団長達は報告を故意に怠ったと考えられる。つまり松井石根司令官は蚊帳の外に南京滞在中は置かれてたと推測できる。

 

松井司令官の権威が師団長達から軽く見られていたのは松井司令官が南京を去る日の1月23日の中島日記に中島師団長と松井司令官の会話から感じとれる。

 

従って松井司令官は南京虐殺は知らなかったのは事実で東京裁判で不作為の罪が課せられたのは虐殺を知っていて行動をとらないというより司令官の身でありながら知らなかった事に責任を取らされたと考えるべきだろう。

 

もう一つ松井石根司令官の南京事変で述べておきたい事は

上海事変の後、陸軍の不拡大方針のにもかかわらず柳川司令官の要求に屈し南京攻略を参謀本部に要求し、既定事実を作ってしまおうと東京からの命令をまたずに急遽南京へ向けて進軍した。

 

そのことが兵站不足を招き、市民からの徴発を許容し、それが軍紀風紀の弛緩を促し、捕虜、一般市民の強姦、虐殺に繋がっていく要因となった。彼の南京攻略への突如の変更の決定が南京虐殺の因になったと言えるだろう。

 

又許可を待たずに南京へ向かって軍を動かしたのは統帥権干犯になるが陸軍も陸軍で軍法裁判が南京事変で開かれたことはない。陸軍の軍法裁判はその後の経過を見ても戦果の結果次第によるものであってないが如くのものだった。

東京の参謀本部から12月1日付で公式の命令書を受けたが軍は既に南京近く迄来ていた。この南京攻略が日中戦争が日中和平の道を永久に閉ざしやがて太平洋戦争へと広がっていったということから最終的責任は陸軍参謀本部にあるが松井石根司令官の上海事変後の心変わりがその後の日本の運命に大きく左右したことの一端を担っていたとも言えるだろう。

 

ある日本人の漫画家のシリアの避難民へのFBの書き込みについて

ある女性の漫画家がシリアの避難民に対して心無い文をフエイスブックに載せたということでインターネット上で問題になった。

 

ほとんどのネットユーザーは「日本人の恥」とかあらゆる罵声をかけてフエイスブックにアカウントを削除する意見等が寄せられた。フエイスブックは削除もせず漫画家も詫びいる様子もなく「本当の避難民には同情するが避難民に寄せられる同情心を利用して避難民になりすます人は許せない」というような反論もしていた。

 

避難民に関してこのようにネガチィブな考えを持ったのは最近世界中で話題になった砂浜に屍体になって横たわっていたシリアの少年の家族が避難民を装ったと思っていたらしい。それは漫画家が広告に添えた文から推測できる。

 

問題の家族を偽装避難民と主張するブログを日本文に翻訳したブログがあるが彼女の主張はそれらを元にしたものと思う。このブログサイトは我田引水的な主張をする記事を載せることで悪名が高いがガーヂィアンなどの信頼のおける新聞を読めば少年の家族はシリアのコバニからトルコに住んでいた避難民であると述べている。信頼のおけるガーヂィアンの記事とネットのブログとどちらを信じるかは個人の感覚の問題だが私はガーヂィアンを信じるが。

 

フエイスブックはツイッターと違いフエイスブックは個人の環境を想定してコミュニケーションをしツイッターは公共のドメインに向けて発信するのでFBは公共性が少ないのでヘイトスピーチとかの発言への規定はゆるい、したがって彼女のアカウントを削除する必要はないと思う。気にいらなければ彼女のフエイスブックのアカウントをアクセスしなければいいので、今回の騒ぎもアクセスしたユーザーがツイッターなどの公共性のあるアプリケーションを使って広げた為であろう。

 

著者の意図が面白い半分か本当にほとんどの避難民が偽物かを信じているのかはわからないがネットの反応をみると日本人の典型的な態度が見えてきて面白い。

 

この騒ぎから思ったことは前から考えていた日本人は他民族の人間と比べて他人を思いやる気持ちが少ないのではないかということだ。このことは今年の初めに起きた後藤健二氏と湯川遥希氏がISISの人質になり無残に斬首された時報道機関、ネットをつうじて見られた日本人の反応を見たときもそう思った。

 

あの時自己責任とかイスラム国と人質両人を使ってコラボしたイメージがネットに頻繁に流れた。コラボしたイメージは悲劇の真っ只中にいる人間の心を察するよりも自分のコラボの作品を大衆に認めさせたいと思うエゴを感じた。つまり思いやりがないわけだ。このような反応は正直言って日本だけではないかと思う。確かに外国でもコラボはするがこのような時に行われた日本人の作品程多くはない。

 

又人質になった人達を危険な所へ行って死ぬのは自己責任という意見もたくさんあった。この論理に従えば海山で遭難した人を助ける救助はどのように説明するのか、自己責任で海山へ行った人達を助けるのは税金の無駄使いとでも言うのだろうか。

 

人間が動物と違うのは他人への思いやりの大きさだと思う。思いやりとは他人の心の動きを自分なりに感じること。動物、例えば犬猫なども似たようなものを持っているが人間ほど複雑で豊かなものはではない。

 

この思いやりは宗教でも強調される。キリスト教で愛を持つことは聖書のいたるところに書かれている。愛とは思いやりも含めた大きな何かである。

 

又仏教でも慈悲の心を持てとお釈迦様が仰っている。慈悲心とは思いやりのことではないのか。

 

人間が人間らしく暮らさせるのは思いやりに負う所が多いのではないか。しかし思いやりの欠落は物事の見識の違いからくることが多い。物事の表面的なことだけを見て背景とか原因をあまり考えないと思いやりがないように思えるが。現代の日本人に多いのはこの見識の浅さからくるのではないかと思う。

 

日本の現代の文化は反知性主義というか皮相主義と名ずけるべきか、テレビを見たり新聞を読んでいても知識を刺激するドラマも読物が少ないと思うのは私だけかな。又日本人は標識にこだわる。自分の観察した感性より社会的地位、位階、学歴、出身大学、家系、外見、服装、評判、噂とかの皮相的な要素に頼る傾向がある。

 

本題に戻しこの漫画家がこのような厭世的な広告を作る原因を私なりに探ってみよう。一歩譲って彼女の言うように砂浜に打ち上げられた家族が彼女の言うように無償援助を受けトルコに住んでいたとしよう。

 

では彼女は一体この家族の何を非難しているのか。ー 安定した住所がある人は避難してはいけないとでもいうのだろうか、彼女も含めて私達は彼等のこと、生活、環境、交友関係、悩み等、何も知らない。彼女の想像する家族は根拠のない、自分に心地よい響きのある情報から作り上げた、観念的ものであるということに彼女は気ずいていない。その観念的に作り上げたイメージは国から無償手当を受け安穏に暮らしドイツに移民できる機会ができ、ドイツでは今より良い生活ができるから避難民を装って行こうというようなものだろう。これらの想像は彼女の性格、過去の経験、教育、そして信条などによって組み上げられたもので、単なる見方であって根拠のないものである。

 

しかし彼女がこのような広告を私的SNSのFBに載せることは構わないと思う。そして彼女のジャパンタイムズに答えた口実の”偽装避難民のことが許せなかった”は自分の根拠のない観念にとらわれ不愉快な思いにとらわれているのだなと私なりの結論をくだした。

 

彼女のように観念的な考えにとらわれる事は私も含めて特に日本人に多い気がする。その理由は現在の日本の皮相文化の影響のせいか民族的なものによるかはわからないが自分の観念的な見方を正しいと思う知識層の意見がSNSとか本の形で市中にたくさん溢れている。

 

このような過ちおこしがちな私達にずっと昔にソクラテスは話しかけてる

 

「本当の知識というものは生きる事、自分自身のこと、そして私達を取り巻く世界、について自分は何もわかっていないということを知ることだ」

 

 

 

大東亜戦争肯定論(林房雄)に対する考察

これは林房雄氏の大東亜戦争肯定論の抜粋に触発され肯定論の批評と自分の太平洋戦争の対する考察を述べてみました。

参考にした大東亜戦争肯定論(林房雄)の抜粋へのリンクはこちらです。

★大東亜戦争肯定論(林房雄)【抜き書き】 - きりんたの日記

 

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彼によると大東亜戦争はペリー提督の黒船が浦賀に来た時から始まり1945年の無条件降伏で終わった百年戦争だったと。その発端となった19世紀は技術革命を経て世界で最も進歩した工業力で白色民族は世界を席巻する為あらゆる場所が植民地にされていった。アジア諸国も次々にその餌食になっていった。そのうねりの中でただ一国日本だけが抵抗し他国から犯されず独立を維持できた。その為にこの百年戦争は日本にとっては避けて通れない過程であったと。だから大東亜戦争も止むをえなかったと。

 

この日本も歴史の流れの中で木の葉のように翻弄されたという見方には頷ける点もある。ただ筆者がこれを太平洋戦争と呼ばず大東亜戦争と呼ぶ理由には疑問が残る。日本があたかもアジア諸国を植民地から解放しようと思い欧米と戦わなければならなかったという理由だ。真珠湾攻撃の直後の日本の知識層の感想を読むと彼と同じような考えの人が多い。この著者をはじめ大川周明、尾崎一雄、徳富蘇峰、横光利一等である。まあ戦前にこのような考えを抱くのはわかる気はするが戦後も日本がアジアの為に立ち上がったという考えに固執している人達が筆者を含む知識人の中にいるというのは私には驚きである。

 

戦争中の特に日本陸軍の行ったアジア諸国の残虐行為、二千万以上の市民の犠牲者を出しておいてもアジア諸国の為に戦ったと思う理由が知りたかったがこの抜粋にはみつからない。また戦前においても、筆者も述べているが、植民地朝鮮に対する統制、関与の仕方、満州、日中戦争の原因、環境を時間をかけて調べれば大東亜とか八紘一宇が戦争を行う為の口実にすぎないことを知るのはそれほど困難なことではないと思うが。だから私は大東亜戦争とは呼ばず太平洋戦争と呼ぼう。

 

しかし太平洋戦争後アジア諸国が独立したのは確かだがそれはアフリカ、中近東諸国にも言えることだ。日本が戦争をしなくても植民地の宗主国であるイギリス、フランス、オランダ等がドイツ、イタリアとの欧州、アフリカ戦線でかなり痛弊していたし、又米国のルーズベルトがチャーチルにアメリカ参戦の条件としてイギリスの植民地解放を条件にしていたという。このように戦後、植民地解放への条件は戦前よりずっと整っていた。確かに日本の参戦というより第二次世界大戦自体が植民地解放に多大な影響を与えたと言った方がいいだろう。悲しいことだがこの大戦の犠牲がなければ植民地、人権解放はずっと遅れた。歴史の皮肉さというべきか。

 

確かに日露戦争の結果がインド、中国、そしてベトナム等のアジア諸国が独立運動の活性化に繋がったが日本はそれらの運動に対して、政府レベルでは、助けるどころか宗主国の思惑を図って障害になったことが多かった。国民の知識層の中には、筆者もその1人だが、アジア諸国から欧米による植民地の鎖を解き放し自由を獲得するためにこの戦争を遂行するのだという理想を抱いていたが政治、軍事機関の野望とはかけ離れていた。しかし知識層は醜い部分には耳目を閉ざし理想を信じつずけた。

 

この日本の存亡危機の時に見せた日本知識人達の真実から顔を背け自分の信じるものにすがりついた心情は誰でも持っている人間の欠点の一つで我々はこのことを十分に胸に刻みつければならない。 ”オーウェルの問題”にも記されている、「我々の周りには有り余るほどの情報があるが何故僅かなことしか知らないのだろう」人間の知識の限界を暗示した言葉である。 

 

ところで日露戦争の背景を調べると日本は勝ったことになっているが実に幸運の連続だった。まず1902年に締結した日英同盟のおかげで露仏協定を結んでいたフランスの参戦を不可能にし、英国の助けによって戦争資金調達の為の外貨獲得、英国からのバルチック艦隊の航行中の状況についての情報提供、バルチック艦隊は英国の制御下の下にあったスエズ運河を使えず南アフリカの喜望峰を回らせられ又英仏の関係悪化を危惧し仏の寄港地が使用できず整備が十分に出来ない為艦隊は常に5から8ノットの低速度でしか航行できず奇跡の航海と呼ばれた。

 

ロシアの日本海会戦での大敗は日本軍の作戦面の勝利だけでなく遠距離を整備も満足にできていない痛弊した艦隊と地の利を生かした大日本帝国艦隊の差が明らかに寄与したと考えるのが妥当だろう。又ロシアはロマノフ王朝の崩壊を迎え日露戦の中で第一ロシア革命が起こり人心は戦争から離れていた。

 

だからポーツマス条約での停戦を日本も金も戦闘心もつき戦える状態でなかったにもかかわらずロシアは承諾しなければならなかった。日本がかなり弱っていた証拠には賠償金獲得を諦めたことでもわかる。

 

百年戦争のもう一つの理由は日本が欧米諸国から植民地化、その他諸々の圧力で追い詰められ太平洋戦争前に頂点に達したという説で筆者もこの考えをするグループに属する。確かに日露戦争前迄は特にロシアの南下政策に脅かされていた。著者の言うようにマクロ的に見れば歴史に翻弄され日本は追い詰められ選択がなかったように思える。しかし歴史の歩みにもっと焦点をあててみれば違う流れが見えてくる。

 

幕末から日露戦争の前迄は欧米諸国の植民地化に脅威を抱いていただろう。しかしそれらの日本への植民地化の恐れは日露戦争の勝利によって遠のいたと言えるだろう。日露戦争の終結した後は植民地化の脅威から帝国主義に向かうプロセスに伴って生まれてきた野心と列強国に対する競争心が風船のように膨張し遂には太平洋戦争を経て破裂したと言えるのではないだろうか。

 

このような圧力を作り上げる要素の一つはポーツマス条約で得た満州の様々な権益であろう。その行き着くところは植民地主義に乗り遅れアジアで巻き返そうと目論む米国と衝突するのは火を見るようり明らかだった。筆者は”日本人の必死の反撃にも関わらず、この強圧は年とともに増大し、組織化されて、太平洋戦争の直前にその頂点に達したのだ”と述べていますがその強圧は日本の日露戦争後の国民の実質以上の自信と自惚れとその夜郎自大的国民気質を利用し煽った新聞、雑誌等や知識層とその気質の基ずいた政府の方針、政策が作り上げたとも言えるのではないでしょうか。